投稿者:K. HIRAYAMA
織田信長に仕えた黒人の弥助についての話のようです。
彼に関する歴史的資料はほとんど残っていないが、信長に仕える「武士」であったことは間違いない。
中世(戦国)社会では、身分に関係なく、主君から武士に昇格すれば、武士になることができました。なぜそう言えるのでしょうか?
① 彼は信長から禄を与えられました。
②彼らには大邸宅が与えられました。
3) 歴史的文献には彼に剣が与えられたと記されているから。
信長に侍り、禄を与えられたことは、「主従契約」と「禄を受けることの合意」という重要な条件を満たしていた。また、長刀を所持することが許されていたことから、信長は従者ではなく二刀流の男であった(従者は刀を所持できなかった)。
さらに、家を与えられたら、疑問の余地はありません。
信長が手に入れるまでは奴隷だったのでしょうが、上記①~③により、信長の意志で「武士」になったのです。
本能寺の変の際、明智方は弥助を「獣」や「日本人ではない」と呼んで殺害しなかったが、これは単に明智が弥助を「侍」として認識していなかったためである(おそらく差別感情があったためであろう)。
当時は、身分の低い者を「侍」に昇格させるのが師匠の常でした。
まず、秀吉がその良い例です。

投稿「アフリカ人奴隷が日本(戦国時代)で人気だったというのは嘘」→日本在住の英国人マネージャー「嘘だという証拠は?」→大激怒
預言者アライさんの投稿 アサシンクリードで話題のトーマス・ロックリーの本がヤバいという投稿を見たのでサンプルを見てみたら本当にヤバかった笑。これだけ読むと白人は黒人奴隷に反対だったけど日本人は喜んで使っていたみたいですね。 信長と弥助:本能寺を生き延びた黒人侍 アサシンクリードで話題のトーマス・ロックリー…

ナザレンコ・アンドリー:「『日本の封建領主の間で黒人奴隷が人気だった』という噂は、きちんと反駁して根絶する必要があります。そうしないと、後々大きな問題を引き起こすことになります…」
投稿者:アンドリー・ナザレンコ 「日本の大名の間で黒人奴隷が人気だった」という噂は、きちんと反論して打ち砕かなければ、後で大変なことになります。20~30年後には、「賠償」や「謝罪」を真剣に要求する人が出てくるでしょう。 ▼詳細 「日本の大名の間で黒人奴隷が人気だった」という噂は、きちんと反論して打ち砕かなければなりません。
織田信長に仕えた黒人の弥助については、いろいろ言われているようです。弥助に関する史料はほとんどありませんが、彼が信長に仕えた「侍」であったことは間違いありません。中世(戦国)社会では、身分がどうであれ、主君から「侍」に昇格させてもらえれば、誰でも侍になれました。なぜそう言えるかというと、1)信長は「…
— 平山 K. (@HIRAYAMAYUUKAIN) 2024年7月19日
fa-twitter関連記事
私の意見についてはすでに他の場所で回答しました。
— 平山 K. (@HIRAYAMAYUUKAIN) 2024年7月19日
探しました。ここにあります。
(読みながら)なるほど。 pic.twitter.com/QCdsObsnmZ
— ロタ (@rt_nihon) 2024年7月19日
それはデマだ。悪意のあるデマだ。
— 平山 K. (@HIRAYAMAYUUKAIN) 2024年7月20日
明け方の投稿に対して、反論や批判(非難?)をいただきましたので、私見を記します。まずは、皆さんで議論できるよう、史料を提示することから始めたいと思います。弥助という人物についてのみ書きましたので、ご了承ください。#ヤスケ
— 平山 K. (@HIRAYAMAYUUKAIN) 2024年7月20日
まず、本書の元となった史料を紹介します。太田牛一の『信長公記』にはいくつかの異本があり、未だ収集・紹介されていません。全文が公開されていない尊経閣文庫版には、現在流通しているものと異なる記述があります。
(1)『信長公記』(陽明文庫版)天正九年二月二十三日— 平山 K. (@HIRAYAMAYUUKAIN) 2024年7月20日
まさにその通りです。一番大事なのは信長に会って刀を与えられたことです。何度も言いますが、中堅以下の者は刀を帯びることができませんでした。
— 平山 K. (@HIRAYAMAYUUKAIN) 2024年7月20日
② 姓と武士の身分
苗字がないから武士ではないという批判もあります。確かに苗字(家名)の有無は非常に重要な論点です。しかし、戦国時代には苗字がなくても武士である人がいました。その最も分かりやすい例を紹介しましょう。— 平山 K. (@HIRAYAMAYUUKAIN) 2024年7月20日
では、彼らは武士身分ではないのでしょうか?彼らは小泉重長という地方領主の家臣(家臣)なので、武士身分であることは間違いないと思います。ただ苗字を授かっていないだけだと思います。彼らは「殿原」と呼ばれる人々で、村では「殿」「方」と敬称される村武士身分です。
— 平山 K. (@HIRAYAMAYUUKAIN) 2024年7月20日
黒人が信長本人から「弥助」という名前を授けられるなど、他の待遇も受けるのは異例のことだった。そのため太田牛一は『信長公記』に記録し、当時は有名な話だったため『家忠日記』にも記している。ただ、弥助の待遇はその後(本能寺の変まで側にいた)改善されたかもしれないが……
— 平山 K. (@HIRAYAMAYUUKAIN) 2024年7月20日
念のため、注釈を加えておきます。三浦按針を例に挙げる人もいますが、ウィリアム・アダムスが三浦按針の名を名乗ることを許されたのは一体いつ頃でしょうか。徳川家康に会ってすぐというわけにはいきません。忠誠心が認められて苗字も与えられたのです。突然のことではありません。皆さん、よく調べてみてください。
— 平山 K. (@HIRAYAMAYUUKAIN) 2024年7月20日
また、弥助は信長の荷物を運んでいたから従者だったという説もありますが、尊経閣文庫版の『信長記』をよく読んでみてください。弥助は「官具」を運ぶこともあったとありますが、これは弥助が十人分の力を持っていたからだそうです。並外れた力を持っていたので、状況によっては……
— 平山 K. (@HIRAYAMAYUUKAIN) 2024年7月20日
どうも、私が史料で示した説明を全く読んでいないようです。史料には弥助が「荷物持ち」だったとは書いてありません。「(力持ちで常人を超えたため)信長の道具を運ぶこともあった」とあります。「時々」(←ここ大事)。短刀であっても信長から刀を授かったことの意味をよく考えて欲しいです…。
— 平山 K. (@HIRAYAMAYUUKAIN) 2024年7月20日
池田氏は、日本中世史については何も知らないと認めている。すでに述べたように、姓を与えられる前には、最下層に武士がいた。彼らは「殿原」「若頭」「家子」「被官」など様々な名前で呼ばれていたが、その中には、まだ姓を持つことを許されていない者もいた。彼らは、その功績により領主から認められていたのである…
— 平山 K. (@HIRAYAMAYUUKAIN) 2024年7月20日
fa-wikipedia-w弥助
弥助は戦国時代に日本に渡った黒人で、宣教師の奴隷・召使として武将織田信長と出会い、信長の寵愛を受けた後、宣教師から紹介された。信長が亡くなるまでの15ヶ月間、家臣として仕えた。
出典: Wikipedia
オンラインコメント
・今、これほど論争が起こっている理由はそれではありません。英国人が、日本軍が黒人を奴隷にしたという嘘を広めているという事実が原因なのです。
・武士の定義によって違うと思います。戦国時代は農民が農繁期以外に戦争に出ていましたが、信長は職業軍人を作ったと言われています。ですから、身分の低い人を武士に昇格させたのは信長の特殊性だと思います。その中でも秀吉は本当に例外的だったと思います。
・ノブさんは才能のある人を際立たせるイメージがあります。
・弥助が刀をもらったという記録はないが、力士であった伴正林は刀と脇差を与えられ、家臣となった。
・授かったのは長刀ではなく鍔のない短刀だった。嘘をついてもダメだ。
・苗字を持たない武士もいました。このような社会階層は単純ではないので難しいですが、単純ではないので面白いです。
・侍であるということは刀を携帯できることだと思っていました。